赤ペンPの添削日記
由無し事を徒然に書き連ねる日記。
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ひらけポンキッキとは関係ない
「悟りを開く」という言葉があります。

だいたいのニュアンスはお分かりになると思うんですが、
説明をしろといわれるとなかなか難しい。
そもそも「悟り」という言葉自体が明確な文章として
定義されていないというか、だからこそ「悟り」なのだというか、
そんな感じで結構曖昧だったりする。

一応辞書をひくと、
「心の迷いが解けて、真理を会得する。開悟する。」
なんて言葉で説明されてますけどね。ちょっと待て最後、
それ漢字にしただけじゃねぇか(笑)。

今日はそんな曖昧な言葉のお話なので、
考え方のブレが大きい分、読む人を選ぶかもしれません。
それを前置きしつつ、受け売りを多分に交えながら。


誰かが悟りを開いたとしましょう。
その"悟り"って、一度開いてしまったら、
そのままずっと開きっぱなしの状態でいてくれると思いますか?

私は生憎仏門の方面の知識に乏しいので、実際のところは
よくわかりませんが、恐らくそんなことはないんじゃなかろーかと
想像するわけです。悟りの境地に達するには様々な苦労を
乗り越える必要があるのでしょうが、一度達した悟りを、
いわば"維持"するためにも、やはり苦労が必要なのだろうと。

あれですね。
「チャンピオンになることより防衛することが難しい」
なんてボクシングで言うのと同じなんでしょうね。

さて、実は世の中、物事やそのスケールの大小を問わなければ、
この「悟りを開く」というところまで行った人って、
結構多いんじゃないかと思うんです。ところが同じ場所まで
辿り着いたはずの人たちのその後は随分違うというか、
文字通り十人十色に分かれていく。時にそれは異なる存在故に
必然的に生じる「違い」ではなく、明確な「上下」という
形を取ることも珍しくない。

つまり、頑張って悟りを開いたはいいけれど、そこで終わっちゃって
いつの間にやら開いたものを閉じてしまった人と、開いた後も
そうあり続けようといろいろやる人の違いがあるって事です。

この話は基本的にその人自身の中で完結するものなので、
このまま書き続けてもそれこそ「人それぞれ」という結論で
まとまってしまいます。だから、ここに他者の存在を
介在させ、「それがどういう風に見えるのか」というお話に
シフトさせてみましょう。

それはきっと、ほんの小さな勘違いなんです。
苦労や苦悩の果てに、ようやくそこに辿り着いた時、
人は誰でも感慨深く感じるでしょう。無論それは当然の事で
何の間違いでもありません。ただその感慨の中に、
些細な一言が紛れ込む事で、随分と事態は変わってしまう。
それは例えば、こんな具合。

「俺はこれでいいんだ」

つまり、悟りの境地に辿り着いたという事実を
ある種の免罪符のように考えてしまうって事ですね。
そしてその事実だけを持って自分の全てを正当化する。

こうなるとその後が色々面倒だ。
職場でもいいし、それ以外の付き合いでも構わないんだけど、
例えばやたらと昔の栄光を自慢したがる人とかさ、
ぜんっぜん根拠がないのに妙に上から目線の人とかさ、
そんな人っていませんか?今の職場には多いんだよねぇ・・・
って、また仕事の愚痴になるところだった(笑)。

もちろん「そこまで辿り着いた」のは紛れもない事実だから、
相応の敬意は払われているわけなんですが、はじめは確かに
その敬意を持って向けられていた視線が、やがて嘲笑や憐れみの
色を帯びてくる
事に、当の本人は気付かない。気付かないから、
「俺はこれでいいんだ」というスタンスであり続ける。
で、その人にとってはそれで全然OKってところが
話をややこしくするわけです。何しろ気付いてないからね。

「面白い事に」という表現は適切ではないんだけど、
普通はそういう人ってどんどん孤立しそうなもんなんですが、
ところが案外と孤立しないケースが多いんですよね。
ただ、人は減らないけどその質は確実に変わってる。

例えばわかりやすい言葉でいえば信者のような、
ある種の盲目的なイエスマンだったり、ウォッチャーのような
単なる興味本位の目しかない人だったり。
これが職場だったら、そういう上司や同僚がいても
そうそう簡単には離れられないわけで。

随分と生々しい話を書いています。
そうなってしまう理由は単純で、要するに自己の
体験談
でもあるんですよ、これ。
さすがに具体的な事はちょっと書けないけど、とにもかくにも
20代前半の頃の自分って、ぜーったい生意気で無礼に
見えてたと思うんですよねぇ(苦笑)。

その事に気付く機会があった事、気付かせてくれる人が
傍にいた事は本当に幸運だったのだと、今になって
しみじみ感じたりするわけです。

思い返すと苦々しい話ではあるんですが、出来ることなら
そういう事にちゃんと気付ける自分でありたいし、またそれを
指摘してくれる人がいるような環境を身の回りに作りたいなー、
なんて思うわけです。思考停止したら、やっぱダメだよね。

動画を作る人として、「悟り」に似た境地はあったんだろうか。
・・・ないかな、まだ。ある意味、思い上がれるところまで
いける事も、大変なことなんだろうな。それでいて、
そこから先がまだあるってんだから道は長いよなぁ。

自戒の念もこめた、そんなお話でした。
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Author:赤ペンP
都内某所に潜伏し、ひっそりアイマスMADを製作中。表向きはうだつの上がらないサラリーマン。人生のモットーは、なだらかに昇りなだらかに落ちる放物線。

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